春を感じる日中の暖かさが過ぎ、小寒い夜がやってきた。

煌々と輝く月の明かりに照らされたアスファルトの帰路。
路線バスを降り、住宅街を抜けて人気の少ないほうへ歩いていくと、俺の住むアパートが見えてくる。
”園田”という表札が掲げられた、古ぼけた郵便受けが俺を出迎えてくれる。

七志「ただいまー」

俺がドアを開けると、暖色のライトが玄関を照らし、部屋の中からは醤油の焼けた香ばしい匂いが漂ってくる。

いなり「おかえりなさい!だんなさま!」

部屋の奥のほう、キッチンから顔を出した女の子は俺に満面の笑みを見せてくれる。
もこもことした割烹着を身に着け、三角巾をかぶった金髪の美少女。
三角巾をとると、その下からぴょいん、と動物の耳が飛び出す。
背中のあたりではモフモフとしたしっぽが嬉しそうにフリフリと動いている。

いなり「ちょうどお魚が焼けたところですよ」

彼女の名はいなり。
俺にあれこれ世話を焼いてくれる同居人・・・いや、人の姿を得た狐だ。

七志「ありがと、いなり」

平凡なサラリーマン、そして独身貴族だった俺がどうしてこんなことになっているか。
それは数週間前に遡ることになるのだが・・・






七志「ふぅー・・・」

現在20時ごろ、バスを降りた先のいつもの帰り道。
仕事が長引いた俺はほうぼうの体で家へ向かっている。
見慣れた住宅街の家の窓には明かりがつき、家族だんらんの雰囲気を感じる。

七志(あー疲れた・・・明日休みだからって詰め込みすぎだろ・・・)

周囲のマンションから漏れ出る生活音が耳に入る。時折聞こえる水音は風呂だろうか。
ふと空を見上げると綺麗な月が出ている。春先のおだやかな夜だ。

ノスタルジックなこの空気を感じていると、誰も待っていないアパートが余計寂しく感じる。

七志(あ、晩飯用意してないや、コンビニ寄って行こう・・・)

店員さんとはいえ、誰かと接したら少しは寂しさもまぎれるかな。
そんな風に考えながら帰路から外れ、住宅街から少し離れたコンビニへの寄り道を進む。

街灯がぽつぽつと立ち、雑木林と柵、そして畑に囲まれた人気のない道路。
雑木林の向こうには神社と一緒になった公園がある。
昼間は主婦や子供の憩いの場所になっているが、夜は暗く人気もない。
まあ、アラサーのサラリーマンとしては「コンビニに行くには近道だ」くらいの認識しかないのだが
この季節、無灯火運転の不届き者がいるかもしれない。気を付けるに越したことはないな。

七志「うおっ!?」

道を歩いていると突然動物が目の前を横切る。
大きさからして、野良の猫か犬といったところだろう。
そばの茂みからガサガサという音がしている。
・・・大の男とはいえちょっと怖いが、どうやら影はそのまま走り去ってしまったらしい。

七志(ふう・・・驚いたな・・・)


-キキィッ-

-ドンッ・・・-


・・・突然。
後方からブレーキ音と軽い衝突音のような音が耳を貫く。
はっと振り返ると一台のセダンが道に停車し、運転手が何かを探すようにキョロキョロと周りを見回す。
ここからはよく見えないが、どうやら向こうも俺には気づいていないらしい。

運転手はしばらく周囲を探した後、車に乗り込むとUターンして逃げるように去っていった。

七志(勘弁してくれよ、まさかひき逃げか!?)

ひき逃げの現場を目撃してしまった。そう考えると怖いが、このまま立ち去るのはもっと怖い。
スマホを取り出し、通報の準備をしつつ、おそるおそる周囲を見てみる。
道路に人が転がっている様子は見えない。
・・・しかし、車が停まっていたすぐそば。雑木林の根元に「被害者」は転がっていた。

スマホのライトをつけて近づいてみると、怪我をした動物の姿が照らし出される。
思い返してみればヒトが撥ねられたにしては軽い音だったからな。

イヌ・・・いや、イヌに似ているが、たぶん違う。
図鑑やテレビでしか見たことがないが・・・キツネだ。
毛皮を赤い血で染めた狐が、道路に横たわっている。

まだかすかに腹が上下している。息はあるようだが、そのたびに口から血を流している。

七志(まだ生きてる・・・)

正直に言えば気味が悪くて近づきたくないが、見てしまった以上は無視するのも気が引ける。
それに俺にはどうにも放っておけなかった。

七志「・・・ああ、もう!!」

脳裏に浮かぶ、昔飼っていたペットとの別れ。
動物病院から帰ってきたあの日、花と一緒に段ボールに入れられたアイツの寝顔。

俺は気づくと狐を抱きかかえて走っていた。
抵抗する力もないのか、血だらけの腕をだらんと垂らして俺に抱えられる狐。
通勤路の近くに動物病院があったはずだ。

七志(そうだ、あの時もこんな感じだった・・・)

自分でも信じられないほどの気力。
もしかしたらアイツが力を貸してくれたんだろうか?
この時の俺にはそんなことを考える余裕はなかったんだけど。

病院まで駆けつけると、近所迷惑も顧みずに力いっぱいに戸を叩く。
診療時間の締め切りを示す札がかかっているものの、まだ扉から光が漏れている。
俺はその光にすがるように声をあげていた。

七志「誰かっ!誰かいませんか!!助けてください!誰か!」

ガタガタと音がした後、続いて鍵が開く音がして、メガネをかけた若い男が顔を出す。

獣医「ちょ、ちょっと、なんですか!診察時間はもう・・・」
七志「今さっき、そこで、車っ・・・はねられてっ・・・!」

息が上がって言葉が出てこない。
しかし彼は俺の腕の中を見て事態を察したようだった。

獣医「野生のキツネ・・・?かわいそうに、あなたが見つけたんですか?」

彼は「早く中へ」と手招きして俺を院内に招き入れた。

獣医「取り急ぎ応急処置をします。あなたはそこで待っててください。
   手洗いと消毒、はやめにするように!」


狐を慎重に彼に預けると、待合室のいすに腰掛け、しばし呆然とする。
少し時間がたって、上がった息が落ち着いてくると、室内を見回す余裕が出てくる。

診療時間はすでに過ぎており、小奇麗な室内には俺一人。
電源の切れたテレビモニター、丸い時計、そして透明な仕切りのついたカウンターの付近には犬のぬいぐるみ。
シートをはずしたペット用トイレの横の手洗い場を見つけて、さっき先生に言われたことを思い出した。
七志(そうだ、手洗いと消毒)

立ち上がり、蛇口をひねる。
流れ出る水で手についた血を洗い流し、ハンドソープを泡立てる。
少しずつ冷静になった頭で鏡を見ると、ワイシャツの胸の部分が血で染まっていることに気づいた。

七志(これは・・・洗濯するより捨てたほうがいいか)

明日が休日でよかった・・・なんてことを考えるほどには余裕が出てきたらしい。

あの獣医の先生、この時間にもいてくれていてよかった。
ここに住み込みで働いているのかな・・・

手指の消毒を済ませてしばらく待っていると、先ほど先生が入っていった処置室のドアが開く
すぐさま立ち上がった俺を見て、先生は軽く息を吐きながらほほ笑んだ。

獣医「安心してください、まだ気を失っていますが生きています」
七志「・・・よかった」

その言葉を聞いて肩の力が抜けたような感覚になる。
俺の口を突いて出た言葉は、たぶん混じりけのない本心だろう。

獣医「あなたがすぐに連れてきてくれたおかげですよ」

今は白衣を着ていないが、柔和な笑顔を見ると、普段の姿が目に浮かぶ。
俺が状況を説明すると、しばらく狐の面倒を見ると申し出てくれたので
また明日様子を見に来ること、そして感謝と謝罪を伝えて病院を後にした。


空を見上げると、きれいな月にもやがかかっている。

七志(いまからコンビニまで戻るのめんどくさいな、まあ今日はカップ麺で済ますか・・・)

俺は月明かりに照らされた道を戻って帰路へとつくのだった。



第0話:おわり


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