「ふぅー・・・」
現在20時ごろ、バスを降りた先のいつもの帰り道。
仕事が長引いた俺はほうぼうの体で家へ向かっている。
見慣れた住宅街の家の窓には明かりがつき、家族だんらんの雰囲気を感じる。
明日は休みだ。はやく家に帰って休みたいが、その前に夕食を調達しないといけない。
道沿いのマンションから漏れ出て聞こえる住人の声が耳に入る。春先のおだやかな夜だ。
時折聞こえる水音は風呂だろうか。ふと空を見上げると綺麗な月が出ている。
ノスタルジックなこの空気を感じていると、誰も待っていない自宅が余計寂しく感じるので
目的のコンビニへ急ぐことにした。
少し歩いていると道の横に雑木林が広がり始める。
奥に見える家屋と鳥居が示す通り、神社があるからだ。
神社に併設された公園は昼間は主婦や子供の憩いの場所になっているが
夜は暗く人気もない。おまけに古ぼけた街灯が時折チラついている。
まあ、アラサーのサラリーマンとしては「コンビニに行くには近道だ」くらいの認識しかないのだが。
そのまま神社の横を歩いていると、ふと黒い影が目の前を横切る。
大きさからして、野良の猫か犬といったところだろう。
そばの茂みからガサガサという音がしている。
・・・さすがにこれは俺もちょっと怖いが、どうやら影はそのまま走り去ってしまったらしい。
日中は通勤路になっているこの道も、この時間帯にほとんど車は走っていないようだ。
暗くなってきたこの季節には無灯火運転の不届き者も多い、気を付けなければ。
そんなことを考えつつ、俺はコンビニで買う夕食に思いをはせていた。
・・・突然のことだった。
後方からブレーキ音と軽い衝突音のような音が耳を貫く。
はっと振り返ると一台のセダンが道に停車し、運転手が何かを探すように
キョロキョロと周りを見回す。
こっちからはよく見えないが、どうやら向こうも俺には気づいていないらしい。
運転手は反対車線にUターンして逃げるように去って行った。
事故か?
そう思ったが周辺に人影はない。
しかし、車が停まっていたすぐそばに「被害者」が転がっていたことに気づく。
スマホのライトをつけ、おそるおそる近づいてみる。
イヌ・・・いや、イヌに似ているが、たぶん違う。
図鑑やテレビでしか見たことがないが・・・キツネだ。
茶色い毛皮を赤い血で染めた狐が、道路に横たわっている。
おそらく、今の車にはねられたのだろう。
まだかすかに腹が上下している。息があるようだ。
とはいえグッタリとした様子のそれは今にも息を引き取りそうで、苦しそうな様子だった。
正直に言えば気味が悪くて近づきたくないが、現場を見てしまった以上、無視するのも気が引ける。
「・・・ああ、もう!!」
脳裏に昔飼っていたペットとの別れが浮かぶ。
病院から帰ってきたあの日。
花と一緒に段ボールに入れられた彼の寝顔を思い出す
そして今、いてもたってもいられない自分。
俺は気づくと狐を抱きかかえて走っていた。
抵抗する力もないのか、血だらけの腕をだらんと垂らして俺に抱えられる狐。
幸い自宅の近所に動物病院がある。そこへ急ごう。
自分でも信じられないほどの気力で病院まで駆けつけると、近所迷惑も顧みずに力いっぱいに戸を叩く。
診療時間の終わりを示す札がかかっているものの、まだ扉から光が漏れている。
俺はその光にすがるように声をあげていた。
「誰かっ!誰かいませんか!!助けて!」
ガタガタと音がした後、鍵があく音。
何事かという顔をした小太りの中年が扉を開く。
「今さっき、そこで、くるっ・・・車っ・・・!」
息が切れて言葉が出てこない。
しかし、男性は事態を察したらしく、俺を院内へ招き入れた。
狐を彼に預け、待合室のいすに腰掛け、しばし呆然とする。
少し時間がたって、上がった息が落ち着いてくると、室内を見回す余裕が出てくる。
診療時間はすでに過ぎており、小奇麗な室内には俺一人。
電源の切れたテレビモニター、丸い時計、そして透明な仕切りのついたカウンターの付近には犬のぬいぐるみ。
中身のないペット用トイレの横に手洗い場を見つけると、先ほど先生から消毒をするように言われたことを思い出した。
手についた血を洗い流し、ハンドソープを泡立てる。
鏡を見るとシャツの胸の部分がうっすらと血で染まっていることに気づいた。
洗濯するより捨てたほうがいいのかな。
明日が休日でよかった・・・なんてことを考えるほどには余裕が出てきたらしい。
そんな不謹慎なことを考えていると、先ほど先生が入っていった処置室のドアが開く
すぐさま立ち上がった俺を見て、先生は軽い笑顔で応えた。
「安心してください、あなたのおかげで一命は取り留めましたよ。
とりあえず、この子はうちでお預かりしましょう」
今は白衣を着ていないが、その笑顔を見ると、普段の姿が目に浮かぶ。
丁重にお礼をすると、後日様子を見に来ることを伝えた。
シャツは洗濯すれば問題ないとは聞いたが、さすがに血の付いたまま着ているのもアレだ。
鞄の中にしまっておいたジャケットを肌着の上に羽おり、あらためて家路につく。
空を見上げると、きれいな月にもやがかかっている。
コンビニに行くには遠回りになってしまった。
今日の夕飯は、買い置きしておいたカップめんで済まそう・・・